俯瞰すること1
こんにちは
私は最近自分を俯瞰しなくてはと思うことが多くなりました。
今回は俯瞰することに対しての考え方についてお伝えします。
まず自分が何故考えたことを人に伝えるのか、皆さんに意図はございますか?
私は頭の整理ためです。
頭を整理しないとならない状況とはどういうことでしょうか?
私はインプット過多だと考えております。速読やフォトリーディングなど、インプット面では強いと自負しております。
ただインプットだけでは身につきません。
インプット→咀嚼→アウトプットで消化吸収ができると思っています。
ここの咀嚼から先が難しいです。
難しいため一般的に補助を使います。
手段は3つあります。
何もしない、話す、書くです。
人に話すことでレスポンスが来て、噛み砕くことができます。
書くことで頭の中にしかなかったことが可視化されます。可視化されることでそれを基に見直すことができます。
私自身も1つの考え方でしかなかったものが、人と話して新たな考え方にもなります。
ブログやメモに書くことで考えいたことが派生します。
話したり書くことで、○にしか見えなかったものが実は下から見た三角錐で、横から見れば三角形にも見えたりします。
丸に見えたものを丸のままにするのは簡単ですし、何もしなければ丸のまま覚えとくのも難しいはずです。
咀嚼することで丸であることも覚えられ、丸でない一面も認識することが可能になります。
という一連の話は、自分を俯瞰することで見えてきました。1日に出会った一見どうでも良い話を何故人にするのかと考えてみました。
例えばこんな話です。フランス語はかつて世界で現在の英語のように使われていました。ただアメリカの発展でフランス語が英語に代わりました。フランスは発展途上国の開発協力で、フランス語や文化を広めています。かつてのように広めたいのです。
正直どうでもいいですね。私もそう思います。
こんな話を繰り返していくと、話の中で共通点が見つかったりします。
野球は世界でマイナーなスポーツなのをご存知ですか?
従兄弟がオーストラリアに住んでいるので会ったときこの話をしました。
世界ではサッカーやラクビー、アメフト、クリケット、陸上などが盛んです。
世界で盛んなスポーツでは競技場の転用が効きます。
マイナーな野球では基本球場で野球しかできません。
球場という特殊なものを作れるのは裕福なのです。野球は場所だけでなく、アイテムが必要です。アイテムを揃えるのにも富が必要です。世界は日本と同じようにら裕福でありません。
こんな話をしていたら、オーストラリアでメジャーなフッディーと言われるスポーツがあるみたいです。フッディーはクリケット並んで人気なようです。
私はフッディーをアメフトだと思っていたのですが、調べてみたらオーストラリアフットボールというスポーツだそうです。
フッディーはどんな場所で競技が行われると思いますか?
なんとクリケットと同じなのです。
驚きました。
オーストラリアも元々植民地で裕福でなかったのだと思います。
クリケットが先に流行って、クリケット以外のスポーツと考えたときにアメフトをクリケット用の競技場に当てはめたのだと思います。
俯瞰を細部まで見ていくとここまで思い出します。
ここまで思い出すことができれば、人に話すのに十分なものだと思います。
また他の話も別の機会に。
許容できるとき
ご無沙汰しております。
私たちは生きる上で、一定の我慢をする必要があります。
ルールやマナーも、我慢の他ありません。
ただ我慢にも限界はありますよね。
今回は我慢できるときの話をします。
我慢できるときには、条件があります。
一つ損をする場合
二つ得をする場合
三つ恩や義理のある場合
一つめの損をする場合は、我慢しないときに損するということです。
この場合は極力我慢します。
特に日本人はリスク回避的な性質を持つので、損をする場面では我慢をします。
二つめ得をする場合、これはいわゆる仕事ですね。
金銭や対価が発生する場合にも我慢をします。ただ、金銭や対価に不満のあるときには我慢しません。というかできません。
三つ恩や義理のある場合は、人によって我慢します。我慢できない人も一定数います。
わたしの中では幼稚な人や自分勝手な人が当てはまります。ここが我慢できない人とは私はあまり仲良くなりにくいです。
さて、
なぜこんな話をしたかときっと疑問に思う方もいますよね。
なぜなら電車で隣に座っていた女性が寝てしまい、寄っかかってきたからです。
個人的には嬉しいのですが(私だけ?)、一般的に考えると迷惑だと思います。
先日見た動画だとサラリーマンのおじさまが、寄っかかってきた女性をスマホで叩いて起こすものもありました。
こうほとんど同じ状況でも許容できるときとできないときがあります。
私の場合は二つめの得をしたので(今回得をしたと言って良いかは別の話)許せます。というよりウェルカムです。女性の皆さんは私の隣で眠くなったら、肩をお貸しします。ぜひ寝てください。
私のことは置いておいて、サラリーマンの方はきっと嫌だったのでしょう。ただスマホで叩くのはダメですね。
今回はそんな話です。
少し忙しくしているので、時間が空けばまた書きたいことがたくさんあります。
楽しみにしてください。
気分と天気と気分
こんにちは!お久しぶりでございます。
最近は予定が多く、時間に追われる日々です。気づいたらもう8月も終わりに差し掛かる頃になりました。人生で初めて暑いと感じる前に終わる夏でした。
本日8/28、東京の多摩の方では雨です。電車に乗れば、大小様々な水滴があるような日です。
個人的には雨は嫌いではありません。
理由はいくつかありますが、大きく3つ程挙げます。
1つ目に雨に濡れてしまえば、もう困らないことです。
まさに言葉の通りですが、濡れてしまえばずっと濡れたままです。濡れが増したりはします。ただ濡れてることには変わりを見つけられません。
濡れてしまえば、もう気にすることは特にないのです。
2つ目に雨の準備をしているからです。
皆さん義務のように、傘を持っています。誰に強要されたわけではありません。雨が降ることを知っています。知っていれば雨の準備はしています。
晴れてる日でさえ、折り畳み傘を常備している人も稀ではありません。
準備さえしていれば雨に濡れることもありません。まず濡れなければ困りません。傘をさしたり、持ち歩くのは面倒です。しかし、ただそれだけです。
雪国に住んでいる人は雪の準備をしています。
私は雪国には住んでいません。
雨と比べ、雪は嫌いです。困ることが絶えないからです。
3つ目に程よく非日常だからです。
日常であることには慣れが生じます。慣れにはメリットもデメリットもあります。
雨には日常の面もあり、非日常の面もあります。
皆さんは晴れであることが普通だと思いますか?
私は晴れから曇り辺りが普通です。
雨が降ることが普通だとは思えません。
そういう面からでは非日常であると言えます。
ただ雪と比べると、季節問わず降る雨は日常であるとも言えます。現に傘を持つ人は多くいても、スノーシューズを持つ人は多くありません。
日常であるのにも関わらず、非日常を演出する雨には魅力があるように思います。
雨の日に気持ちが落ちる人にお伝えしたいのは、雨は雨でいんじゃない?ということです。
もちろん遊ぶ日に雨が降るのは、気持ちが落ちるのもわかります。
考え方を変えれば、遊ぶ日に雨が降ることは普通ではありません。
せっかく遊ぶ日が雨降って嫌だなより
遊ぶ日がより特別になったな
と思える方が、楽しいのではないのかと思います。
ポジティブシンキングを勧めるわけではありません。
ただ雨には雨の魅力を見出すのも、能力だなとも思います。
私は雨が好きな子供は素敵に見えます。
意味と努力率
こんばんは!
私たちは物事の意味を深く考えたり、軽視したりしますよね。きっと自分の好きなことは深く考えたり、興味ないことには意味を考えません。
例えば好きな人から何気ないLINE来たとします。
好きな人にとっては、それこそ何気ないメッセージです。私たちにとっては好きな人からくるメッセージに意味を見出したくもなります。
今回は意味についてお話しします。
私たちは自分の努力したことに意味を見出します。見出しがちというのが正しい言い回しでしょうか。
努力したことを無駄と考えたくないのです。
努力というのは、必要な絶対量が存在します。
自分の感覚的限界と絶対量がイコールであれば、まだ良いです。
ただ自分の限界が絶対量を超えないときがあります。
ここが問題です。
自分は努力しているのに結果が出ないという現状へ陥ります。
結果が出ないときどうするか。
ここで意味づけを行います。
もちろん結果が出たとしても意味をつけます。
感覚的限界と物理的限界はイコールではありません。
案外想定以上に努力できるものです。
私は自分が努力できない人間だと思っていました。
努力できない人間だからこそ、できる人間には最大限の尊敬をします。
努力しているのに結果が出ないということは基本ありません。
それは単純に努力が足りないのです。
もっと頑張らねばならない
ただそれだけの話なのです。
頑張っているつもりの自分を慰めるために、頑張っていたことに意味をつけます。
意味づけは、自分のために行います。
最初の例で出した、好きな人からのメッセージも同じです。
今回私がお伝えしたいのは
自分のために意味づけをしていても
他方面からは意味がないこともある
ということです。
努力している人からすれば、努力していない人は評価することが難しいです。
努力足りていないのに努力していると勘違いする人がいます。これは努力していない人と結果が同じです。
結果が同じであれば、もっと頑張るしかありません。
ここでもっと頑張るか
それとも頑張ったことに意味をつけるかで大きく変わります。
実際にはもっと頑張るしかないのです。
ここで頑張ったことに意味をつけたら、そこで終わりです。
それ以上に実ることは不可能です。
んー何が言いたいのかわからなくなったな
今回はこれでおしまいにします。
また違う形でこの内容に触れます。
2日間
こんにちは!
読んでて違和感のある記事もありそうだなと思い、釈明(言い訳)の内容になります。
大体ブログを衝動的に書くことが多いことは常お伝えしています。
衝動的に書いていなかったり、眠くなったり、微妙な空き時間に書いていると2日間で書くことがあります。
どういうことかというと、昨日書き始めた記事を今日完成させるということです。
こうなると書き始めたとき考えてたことや勢いが減退します。大体の記事は終わりに向かって書きます。この減退具合が激しいと、終わりが変わります。
変わるというよりは分からなくなってしまいます。
どんな終わりにしたいんだっけな?と思ってしまいます。
記憶力がないと言われれば仕方がないことですが、衝動だったり本能みたいなものは記憶するものではない気がします。
記憶するものではないからこそ魅力があったり、価値があるかとも考えています。
一過性のものもとても素敵な情動です。
その一過性の感情を追いたい気持ちで2日目も書きます。
やはり追うのは難しくて、いつも追えなくなります。
追えなくなると冒頭にあるよう記事に違和感が出てきます。
最初言っていたことと最後らへんがイマイチ噛み合わないときがあります。これが違和感が引き起こされる原因です。
2日間かけなくても少し時間を空けるだけで違和感がでたりもします。
ちょっといい時間がなかったという言い訳です。
まとめて書けるときに書ければいいのですが、中々書きたいときはその通りにならないものです。
こんなとこで終わりにします。
花火の熱量
こんばんは!
これもリクエストのあった記事です。
花火について書いてくれではなかったような気がしますが、今回は花火の熱量についてお話しします。
まず熱量というと私はすぐにカロリーを思い浮かべますが、カロリーとは別の話をしたいと思います。
今日は隅田川の花火大会へ行きました。
私自身花火は大して好みではありません。手持ちの花火であればある程度楽しめますが、打ち上げ花火自体は楽しめません。
もちろん文化としては迫力を感じます。ただ単体で楽しめるわけでありません。
なぜ花火に行くかというと、それは口実になるからです。
きっとこれは私だけでなく、花火へ行く人のほとんどが陥ってるはずです。
花火は現実問題二の次なのです。
いくつか例えます。
まず私の前にいた若い女性4人のグループを例えに出します。面白いことに1人だけ浴衣でした。
連れに何故1人だけ浴衣なのか尋ねました。
以下連れの意見
全員彼氏がいなくて、彼氏いない同士で花火に来た。浴衣を着て来た子が、「浴衣着る?」と3人に聞いて、3人は面倒で着なかったそうです。
浴衣を着てた子はとにかく浴衣を着たかったから、浴衣を着る口実が欲しかったそうです。
浴衣を着たい理由は私の推測ですが、浴衣を着た自分が可愛い→SNSに載せる→可愛い→かれぴ?
みたいなとこです。
次は隣にいた小学低学年程度の女児連れ3人親子を例えに出します。父親がとてもやる気満々でした。場所取りも命がけでした(笑)
子供も最初の方は花火を楽しんでいましたが、すぐに飽きてゲームを始めました。父親は子供に「花火を見に来たんだからゲームやめなさい」と怒っていました。
私はなんだか疑問に思いました。
楽しくないものは仕方がないのかなと思います。花火も無理矢理見るものでもありません。
父親はふと言いました。「家族が花火を見て喜ぶ顔見たくて場所取りしたんだ」
それも口実のような気がします。
家族と花火へ行ったんだと周りに言うことができます。会社でそれが言いたいための口実のような言い回しでした。
ところで私はというと、私も花火は口実です。
再三お伝えするよう花火にあまり興味がございません。
花火は誰かと一緒に行く良い口実になるから行きます。一緒に行くというよりも遊ぶための理由づけですね。
だから断られるとかなり心がやられます。
今回は本当に楽しかったです。花火が楽しかったかと聞かれるとあまりピンと来ませんが、花火を見に行く時間から帰りの電車に乗るまで楽しかったです。
きっと次花火に行くときもこう口実にして行くんだと思います。
次は手持ちの花火がしたいですね。
ありがとうございました。
年齢の不可逆性と反比例のマイバリュー
こんばんは!
タイトルはカッコよさ重視で、意味は適当です。何となくそれらしい言葉を使ってみました。
年齢とは歳のことですね。私でしたら21という数字のことです。
不可逆性とは元に戻らないことです。
反比例というのは、ウィキペディア曰く"2つの量があってそれらの一方が他方の逆数に比例していることをいう"らしいです。いわゆる「L」に似たグラフです。Lを丸くすると反比例のグラフになります。
マイバリューというのは適当につけました。ここでは自分が判断する自己価値を表すことにします。
マイバリューについて少し補足します。
例えば私が
自分が思うに自分が国語が得意だと思ってるとします。
つまりマイバリューは国語が得意となります。
ざっくりこんな感じです
無知ゆえに適した言葉を知らないので造語いたしました。
年齢の不可逆性について説明いたします。
年齢とは元に戻すことができませんよね?
一度通過した時を戻すことができないように、0歳からやり直すことができません。だからこそ後悔したり、反省します。0歳だけでなく一つ前の年齢にもなれません。
ただ次の歳にはなれます。時間は1年必要ですが、歳をとることは可能です。私であれば次の誕生日を迎えると22になります。
この元に戻せないことと簡単に歳が取れないことのニュアンスが"年齢の不可逆性"にあります。
次に反比例のマイバリューついて説明いたします。
幼少期の頃を思い出してください。女性でしたら自分のことが可愛いと思っていたり、お姫様だと勘違いしていたことはありませんか?もしなかったとしても、今では考えつかないほど身の丈以上に背伸びしてたのでないでしょうか。
男性でしたら世界で一番強いだとか足が速いだとか、カッコいいだとか思っていませんでしたか?自分がヒーローだと思ったりしませんでしたか?
これもおかしな事にいつしか思わなくなります。
それでもまだ小学生の頃は、身の丈を超えてマイバリューをつけていた人が多いと思います。
これが段々とマイバリューが下がっていきます。
年齢を重ねて心身ともに成長してるのにも関わらず、何故かマイバリューが下がります。
人によっては途中に成功体験があり、マイバリューが一時的に上がる人もいます。
これも一時的なはずです。20歳前後までで上がり続ける人は、心がまだ少年なのでしょう。今回は例外にします。
これは謙遜でも何でもなく自分の力を自己判断できるようになっていることに起因しています。
私の感覚だと30〜50歳くらいの方が一番マイバリューが低くなります。
これも感覚ですが個人差があって、早い人だと20代後半から、遅い人だと60歳手前で最低を叩き出します。
またもや私の感覚ですが、底をついてからはまた上がり出します。
なんとこれは上がり続けます。
際限がありません。
これが反比例のマイバリューです。
厳密には反比例でないのですが、反比例のグラフが私の中でイメージにぴったりだったのでご容赦ください。
年齢の不可逆性と反比例のマイバリューとはなんでしょうか?
私は人を肯定するときの基準のことだと思っています。
例えば
幼い子を褒めるとき「大人だね!偉いね!」というと総じて喜びます。
お年寄りが活発なとき「お若いですね!」というと総じて喜びます。
喜びますというと感情がないのに言ってるみたいですね。ただそれは事実でこれらの褒め言葉に感情はさして乗りません。
なぜ感情のない言葉に喜ぶのでしょうか。
私はマイバリューに沿ってるからだと考えています。
マイバリューに沿った褒め方をすると、より肯定されているように聞こえます。
もっと簡単にいうなら、求めてる言葉を渡すことができます。
難しくいうなら、年齢の不可逆性と反比例のマイバリューです(笑)
こんなオチで申し訳ないですが、終わります。
ありがとうございました!