のぶまさ

keep pushing

言葉の意味 文字モジもじmojiword○○編

こんばんは、のぶしんです!

前回は野菜を食べると野菜を説明できますよ

という話をしました。それは野菜だけでなくて、どんなものもそれに接すれば言葉の説明がより広く深くできますというものでした。

詳しくは野菜編をご覧ください。

 

今回は文字に焦点を当てます。

 

皆さんは文字で言葉の意味を予測します。

実は英語のスペルも日本語と同じように、意味を予測できます。

英語の語源を辿っていくと、日本語の漢字のように単語の意味を推測できるようになります。これはまた別の機会に。

 

話を戻すと文字で言葉の意味を予測します。

予測という言葉を例に出すと

予め測る

予め=前もって

測るはそのままですね。

 

このような手順は一々行いませんが、流れとしては遠からずだと思います。

 

これではまだまだ面白くないですね。

私が今回お話ししたいのはこちらです。

予○です。

 

なんだと思いますか?

 

答えは予測です。

 

○測これはなんだと思いますか?

 

はい、予測です。

 

チ○コこれはなんだと思いますか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内緒です。

 

予測はどちらに○があっても予測だと思いましたよね?

これは前後の文章から、文字を当てています。

 

言葉の意味というのは細かくみていなかったりします。

文字が間違っていてもみなさん理解します。

 

前回辞書が全て正しいというのはピンとこないというような内容を書きました。

これはそれを解釈したもので、大体合っていれば前後の情報がわからないものを補填してくれます。

 

真剣に文章を書いていても文字というのは案外乱雑で、読んでいても生真面目なものではありません。

 

"

こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。

この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか

にんんげ は もじ を にしんき する とき

その さしいょ と さいご の もさじえ

あいてっれば じばんゅん は

めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という

けゅきんう に もづいとて わざと もじの

じんばゅん を いかれえて あまりす。

どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?

ちんゃと よためら はのんう よしろく

"

これはネットから勝手に引用したので怒られてしまうかもしれないのですが、それはまた後で考えるとします。

 

どうですか?

読めますよね?

 

読めちゃいますよね?

 

んー言いたいこと伝わったかな

 

わからないですが眠くなったので、今回はここで終わりにします。

ありがとうございました。

言葉の意味 野菜編

こんばんは、のぶしんです!

辞書お使いでしたか?

 

私は新品で買って新品のままでした。

辞書を使いこなせる子供だったら良かったのですが、残念ながらダメでしたね。

 

辞書は言葉の意味や言葉を探すときに使います。

今回は言葉の意味に焦点をあててお話しします。

 

言葉の意味?

なんの話するんや

と思いますよね。

 

私もあまり考えていません(笑)

打ちながら考えます。

 

皆さんは普段使う言葉の意味わかって使ってますか?

 

うんうん

そうですよね。

 

わかってる"つもり"なんです。

 

実際問題伝わればそれでいいと言われれば私も同感です。

方言なんかもそれに代表されますね。

 

辞書で調べないまま育った私は、言葉の意味を理解しないまま育ちました。

 

言葉の中には、説明できる言葉とできない言葉があります。

 

この二つはどこに違いがあるのかなと考えました。

 

私は接した時間に違いがあるなと思いました。

接した時間が長ければ言葉の概念が、イメージとして形成されます。イメージが形成されれば、言葉ではなくイメージを説明すればいいのです。

 

例えば

あなたは野菜と言われて

なんじゃそれ

とは思いませんよね?

 

きっとあなたの中に野菜はこういうものというイメージがあって、野菜という言葉の意味はわからなくても野菜を説明できるはずです。

 

野菜だけでなくもっと専門性の強い言葉もそうです。

説明できる言葉は接した時間の長い言葉です。

逆にいえば説明できるレベルにしたい言葉は、接する時間を長くする必要があります。

 

接し方について話します。

言葉に出せばいいわけではありません。

 

野菜であれば食べる必要があります。

野菜と言葉に出しても、野菜がなんだかはわかりません。野菜自身と触れ合わなければ、野菜のことはわかりません。

触れ合うためには食べることが一番です。

 

苦い甘いなどの味、水を感じさせる緑の匂い

これは食べなければ説明できません。

野菜をたくさん食べれば食べるほど、広くそして深く野菜について説明できます。

 

野菜を例に挙げましたが誰でも同じです。

触れれば触れるほど説明できます。

良さも悪さもわかります。

 

辞書ももちろん素晴らしいです。

今見ると面白いと思えます。

ただ辞書が全て正しいとは思えません。

なるほどとは感じますが、自分辞書と本の辞書両方を上手く使いこなすことが必要かなと思います。

 

ではでは

今回は終わり

 

ありがとうございました!

かっこつけ解体新書

こんばんは、のぶしんです。

やる気が満ち溢れて爆発しそうなので、ここで抑えにきました。

本日3本目ということで、逆にやる気というのは怖いなと思います(笑)

 

かっこつけることを書きます。

 

かっこつけるとは、カッコいいと思われたいからするのだと推測します。

今回は見栄えをかっこつけとして話します。

 

さっきのエビフライもかっこつけを意識しました。

 

タイトルは人でいう見た目

本文は中身や性格

こう置き換えられると思います。

 

誰しもまずは人のことを見た目で判断します。

ブログ然り、YouTubeやニュースなどもそうでタイトルに惹かれなければ見ません。

本なんかは表紙で負けてしまったりもしますよね。

 

実際見てもらえなければ、何も始まりません。

恋愛も対象にならなければ土俵に立てませんし、中身を見てもらうまでが勝負だったりします。

私自身見た目褒められることは少ないです(中身も褒められたものではありませんが)。しかし、性格が良いとは言えなくても、自分に対して自信があります。自分がどんな人間か理解してもらうまでが大変です。理解さえしてもらえれば、仲良くなります。

理解してもらえるようにはあまり努力してないので、さながら受け身です。相手の力量に依存してます。

私と仲の良い人は素晴らしい人ばかりです。色眼鏡で見るような人とは仲良くなれないので、そういう意味では自信を持って交流のある人間を自慢できます。

 

こう見栄えを整えることで人に見てもらえるようになります。先程も書いたように何でも当てはまります。

見栄えが良くなければまず見てもらえません。

中身がどんなに良くても、それを見なければ良いかどうかの判断さえつきません。

 

人に見てもらうということは貴重な機会です。

眺めてもらうのとはまた違います。授業で他の人の発表ちゃんと聞いてましたか?

自分の番が回ってくるようなものは大して聞いてない人も多いでしょう。自分の番のことしか考えません。

 

見てもらう場というものは少ないです。

眺めてもらう場というものは溢れかえっていて、意味を成しません。

 

動画でいうと

無料(YouTube等)<定額(primevideo等)<購入

左のほうが眺めて、右のほうが見ます。

私の感覚では無料も定額も大差ありません。

 

眺めてもらうよりも見てもらう方が敷居が高いです。

 

映画館で観た映画は覚えていても、primeやYouTubeで観たものは覚えていないこともあるのではないですか?

 

映画では見てるので覚えられます。

眺めているものは中々覚えられません。

 

見てもらうことによって自分を主張できます。

反対に自分を主張したくなければ、眺めてもらえればいいのです。

 

見栄えというのは自分の求める自己主張により変えることが必要です。

 

ただ見栄えを整えれば良いわけではありません。中身よりも映えさせることは賢くありません。

 

見栄えというのは背伸びしないべきです。

 

『学問のススメ』という本があったとして、中身が「小学校と中学校は義務教育です。高校と大学は義務教育ではないけれど行きましょう。」程度のものだったらガッカリしますよね。

専門書などではたまにあるのですが、宣伝では誇張してたのに中身は既知のものばかりだったりします。

 

中身をそれ以外に見せてしまうのも見栄えです。

かっこつけすぎると中身がみすぼらしくなってしまいます。

 

もっとわかりやすく例えるなら

1.5ℓのペットボトルに500㎖のコーラが入ってるとします。

500㎖のペットボトルに500㎖のコーラが入ってるとします。

どちらも新品未開封です。

大きいから邪魔、小さいから運びやすいなどは排除してどちらを選びますか?

 

かっこつけすぎるというのは、こういうことです。

もちろん350㎖の容器には500㎖のコーラは入りません。

中身よりかっこつけないのも損をします。

 

私もそろそろ見栄えを気にしなければと思いながら何年も経ちました。

そろそろやらねば。

 

ありがとうございました。

クオリティ問題

こんばんは、のぶしんです。

今日はやる気に満ち溢れてるので二つ目です。

 

クオリティという言葉はみなさんお使いになりますか?

 

私は完成度と同義でよく使います。

 

完成度も同じ頻度で使いますが、何となく使い分けをしてたみたいです。

今考えてみると客観視したときに完成度

主観的な見方でクオリティと使ってた気がします。

 

特に意味はありませんし、それが常識ではありません。

自分の中で差別化してたというのを、今回はブログでみなさんに押し付けたいなと思います。

 

タイトルはクオリティの方がかっこいいなと思っただけなので、関係ありません。

 

問題についてお話ししていきます。

 

再三お伝えしてるとおり、陸上をやっております。素人に毛が生えたようなものですが、その中でクオリティを求めるときが多くあります。

 

足が速ければそれでいいのですが、練習中はそうもいきません。

動きが良ければ練習している意味がないのです。そう考えると意味のないもたくさんしてきました。

 

動きが良い方が足が速いんじゃないの?とお考えになるかもしれません。動き以外の条件が同じであれば、動きが良い方が足が速いです。その通りです。

 

だから速く走ればいいじゃん!

 

なんだかそういう訳ではないのです。

 

速く走ることは目的で、動きというのは無数の手段です。

いい動きを追い求めて、目的を見失ってしまってはダメです。手段が目的となってしまうケースですね。よくあります。

これは速く走ればいいという方のご指摘どおりです。

 

レーニングの話になってしまうのですが、意識性の原則というものがあります。

これは私などよりも詳しいことをgoogleさんがお答えしてくれますので、「トレーニングの原理・原則」などでお調べください。

 

いい動きをしようとすることが、後々トレーニング効果として自分に返ってきます。

 

スピードを出すことよりも、スピードを試合やこれからに出すために動きを追い求めなければなりません。

これが練習の根幹となります。

 

前置きが長くなりましたが

自分のやりたい動きというものが存在します。

 

それをやっています。

やっていても中々できるものではありません。

 

みなさんも経験があるように、

サッカーでリフティングができなかったり

キャッチボールで意味不明な捕り方してみたり

クラウチングスタートでスタートラインのすぐ近くに足を置いてみたり

見た目ではわかるけど、やり方がわからない

そういうことにぶち当たります。

 

陸上だけでなく、全てのスポーツ、全てのトレーニングに置き換えられると思います。

 

自分のやりたい動きができても変えたくなります。また、他のトレーニングの影響で変わってしまったりもします。

 

クオリティと完成度とミスマッチが起きてしまうことがあります。

クオリティは高いけど完成度は低い。

クオリティは低いけど完成度は高い。

 

主観的にはいい動きでも、側から見ると良くなかったり

主観的にはしっくりこなくても、側から見るといい感じだったり

こういうことがあります。

 

ただ、著しくクオリティの高いときは完成度も高いです。逆にこれはミスマッチが起きづらいです。

 

話を戻すと、このクオリティと完成度のギャップは埋めていかなければいけません。

これは著しくクオリティが高いときも同じで、同じくらい完成度が高くなければいけません。

 

え、なんでギャップ作っちゃだめなの?

足が速ければそれでいいじゃん

 

とお考えになる方もいますよね。

まあ私も前まではそう考えておりました。

 

結果が全てだなと思っていましたし、今でもそう思います。

 

結果(試合)に拘るからこそ、プロセス(練習)のクオリティや完成度は必要です。

ギャップを埋めると、結果にもギャップが起きません。練習が式だとしたら、試合は答えです。式の中で誤差があれば、結果も誤差が生まれます。

この誤差を埋めることで試合で負けにくくなります。

 

勝ちうる回数や確率は変わりません。

ただ負ける回数がとことん減ります。

 

どういうことかと具体的に表すと

格下には負けません。

負ける要素を排除してるからです。

 

誤差があれば下方の誤差分だけ、格下に負ける可能性があります。

誤差がなければ付け入る隙は与えません。

 

結果にこだわり、結果が全てで勝ちに行くからこそ、必要だと感じていただけましたか?

 

これはたくさんの場面に置き換えられます。

会話もクオリティと完成度が高く、ギャップがなければ説得力も高くわかりやすくなります。

実は勉強でも置き換えられますし、スポーツ以外の文化系の活動にまで置き換えられます。

私の経験則ですが実力のある人はギャップがなかったり、小さいことがとても多いです。

 

やる気に満ち溢れるとたくさん書けますね。

楽しかったな。

今回はこれで終わりです。

ありがとうございました。

エビフライ

こんにちは、のぶしんです!

エビフライのタイトル気になりますよね?

 

エビフライ好きですか?

私は普通です。

 

普通なものの話しても仕方ないので、好きなものの話します。

そうです。タイトルは釣りです。あなたは私に釣られました。

おめでとうございます。人生でもう二度とないであろう、エビフライに騙されました。騙されたついでにお付き合いください。

 

好きなものの話というとアバウトなので、走ることについて絞ります。

 

まず走ることが好きなのかどうか

そこからですね。

 

走ることは今では好きです。

ふと走りたくなります。陸上が好きかと言われるとスポーツとしては好きです。

 

エビフライに釣られた人が走ること好きとは限りませんが、走ることについて話します。

 

走ることというのはどういうイメージですかね。

まあ、イメージがあるのかどうか。

走るのが嫌って人もいますね。わかります。私は泳げないので、それと似ていることでしょう。

 

泳げない話に少し脱線しますね。

本当に泳げません。学年でワースト3くらいです。女の子よりも全然泳げません。

授業を一回休むと200m補修で泳がなければいけませんでした。女の子に周回遅れにされた苦い思い出もあります。

 

泳げない私に泳ぐ話をされても、はいはいと答えてしまいます。

 

走るのが苦手な人に対しては恐縮ですが、走ることの話をさせて下さい。

 

では走ることについて。

走りというのは、どういうことでしょうか。

定義は置いておいて、歩くよりも速いスピードの移動手段のことです。

その速いスピードは、何で構成されてるかご存知ですか?

 

当たり前といえば当たり前で、SL(stride length:歩幅)とSF(stride frequency:足の回転数)の掛け算で構成されています。

一般的に歩幅のことをストライド、足の回転数のことをピッチと表します。足の回転数は毎秒何回足が地面についたかをカウントします。

 

平均秒速10mで100mを走れば、10秒00で走れます。

秒速10mというのは、どのくらいのストライドとピッチが必要なのでしょうか。

 

ストライドは100mを50歩で走ると、2mです。

10秒間に50回足がつけば、毎秒5回足がつきます。

ストライドとピッチは掛け算でしたよね。

2m/歩×5歩/s=10m/sになります。

 

何秒(スピード)で走りたいかを考えて、目標のストライドとピッチを決め、達成すると走りたいタイムで走れます。

100mだけでなくマラソンでも変わりません。スピードを構成してるのはストライドとピッチです。

 

まあここまでは

当たり前だよ

そんなこと知ってる

バカにするな

とも聞こえてきます。

 

要するにどうすればスピードを上げられるかということですね。

これもお分かりだと思いますが、掛け算なのでストライドかピッチのいずれか、又は両方ともを高くすればスピードは上がります。

 

走る練習というのは、ストライドを高めるか、ピッチを高めるかしかありません。

それ以外本当にないのかと言われると、強いて言うならその二つを落とさない練習しかありません。掛け算なので、値が小さくなれば答えは小さくなります。

値を維持する、簡単にいうとストライドを維持、ピッチを維持する練習になります。

 

スプリンターというのはこの三つの要素でしか練習しません。

逆に三つの要素が絡まない練習は、好ましくありません。やらなければいいとまでは言いませんが、優先度は当然低くなります。

 

ここまででも

当たり前だ!

知ってる

だから何すればいんだよ

とお怒りの声が聞こえました。はい、聞こえましたのでお答えします。

 

走ってください。

 

走るのが速くなるためには走ることは避けられません。

私も残念で仕方ないのですが、走らないと速く走れません。

画期的な方法があればいいと強く思います。

 

走ってくれというのはかなり投げやりでした。

 

ストライドの上げ方

ピッチの上げ方について簡単にお教えします。

 

ストライドというのは大きく走ればいいです。

大きく走るためには、地面を強く押す必要があります。

走りはジャンプに近い運動です。

遠くにジャンプするのには地面を強く押しますよね。

イメージでは、それを一歩一歩やります。

細かい話はたくさんありますので、ご質問くださればお答えします。

 

ピッチを高めるためには、足が地面についてる時間を短くする必要があります。

ただ接地時間を短くするだけでなく、短い時間で地面を押せるようにならなければストライドが低下します。

押す力を変えずに、接地時間を短くすることでピッチは向上します。

 

他にもご意見があると思うので、その場合はコメント残してくださればお答えします。

 

あっという間に(私の中では)2000字付近まで書きました。

やはり走ることは好きなんだなと改めて感じました。

 

エビフライの話では500字を苦しく書いたように思います。

まだまだ書きたいことはありますが、気になる人がいれば掘り下げます。

 

今日はこんなとこで終わりにします。

エビフライにお付き合いくださりありがとうございました。

 

自分と他人の境界線

こんばんは、のぶしんです。

Yahoo!の記事を見て思うことがあったのでブログに書きます。

 

Yahoo!の記事を簡単に書くと、

最近の大学生が「何者になるか」というのを重要視されている

大学生は「何者になるか」の期待に応えるために正解を答えるようになった

正解は、命題に対して出題者の望む答えや出題者のウケがいい答えのこと

私が目に止まったのはまあこんなとこです。

記事のリンクが欲しい方いたら頑張って探すので、コメント下さい。

 

記事の中では

最近の大学生に対して感心している人

最近の大学生は人ごとのように意見を持っているという悲観的な人がいたそうです。

 

私自身は大学生です。その立場からというと、大学生を代表するみたいで気が引けますが、私の見解についてお話しします。

 

元々周りに流されるような人間ではありません。総体的に自分の意見を持って、自分の持つ尺度で物事を判断しています。

それが原因か、元来の性格ゆえか人とぶつかることは多かったです。

 

多かったというのは見ての通り過去形で、最近になってぶつかることは減りました。

 

生きやすくはなりました。しかし昔の自分へ今の自分を誇れるかというとなんとも言えません。

俺は俺、俺が正しい

そう思うのは強く傲慢です。

私は傲慢でした。今でも人から見れば傲慢かもしれません。

 

根本的にはあまり変化はないですが、表面的には変わりました。人に合わせるようになりましたし、人の意見にも耳を傾けるようになりました。

こういうと自己中に聞こえてしまいますね。

ここでいう人に合わせたり意見を聞くというのは、私が思うにダメなことへ対してです。

 

その人の言うことが正しいのかもしれない、

その人が正しい、

自分の意見は正しくない、

自分の意見を知られたくない、、、etc

 

最近ではこんな風に思ってしまうこともあります。

傲慢でなくなった弊害といいますか

自分自身が薄くなりました。

 

正否はともかく、自分は自分でしかありません。

私は私でしかないです。

 

自分の思うことが正しくも、正しくなくとも

それは私でしか思うことはできません。

 

それが人から見える正解を追い求めてしまうのは、真に正解なのでしょうか?

また正解は必要なのでしょうか?

 

私にはわかりません。

 

自分自身が薄くなるとどうなるか

私は、他人との境界線がなくなると思います。

 

例えば

まとめサイトにあるような服装をして

ネットで調べたように就活をして

当たり障りのないことを話すようになるとします。

趣味も人がやるようなものをして

恋人もlikeのような人と付き合ってみたり

 

これがダメだとは思いません。

それはそれで楽しいと思いますし、単に楽です。

 

自分が何者かを追い求めているのに

自分のやることは、自分を薄めるようなことばかりです。

 

何者かを追い求めると誰かにいきつきます。

それは今までいた誰かであったり、近くにいる誰かであったりします。

 

抽象的でわかりにくいかと思いますので具体的にいうと

皆同じ髪型をして、同じメイクをしている

そう見えてしまうオジサンいますよね?

オジサンにとっては同じに見えてしまう子達は他人です。

しかし、同じように見られてる子を取り上げると自分と他人になります。

自分と他人が同じように見えるのです。

 

オジサン主観

A(あつこ)

A(みなみ)

A(ゆうこ)

 

あつこ主観

みなみ

ゆうこ

 

ということです。

わかりにくかったら申し訳ないことです。

 

自分にとっては他人でも、人から見たら同じ人に見えます。

 

何が自分で、何が他人かわからなくなります。

 

何故こんなことが起きるのか。

 

人からのウケを良くしようと思えば、ある程度はそれに比例してなります。

みんな人に嫌われたくないのです。

 

人に良く思われたい

嫌われたくない

認められたい

そんな承認欲求から、みんな同じことをします。

 

ベクトルが同じだと、着地点は近しくなります。

 

色んなひとがいます。

 

自分の縁をはっきりさせる人もいれば

はっきりさせたいけど薄くなってしまった人

薄いのを隠す人

薄くしたい人

他人になりたい人

 

私は自分の尺度で物事を判断することに大きな価値があると思っています。

今の自分がそうできているか、自信がありません。

だから昔の自分に誇れません。

傲慢であったからこそ、誇れました。

 

今は傲慢でないことが評価されたり、評価されなかったり

どちらが良いかわかりません。

 

正解を人に聞いても、それが正解か教えてくれる人はいません。いても正解が正解かわかりません。

 

傲慢でなくとも昔の自分へ誇れる自分になりたいです。

 

今回はそんな話で終わりです。

 

また今度お付き合いください。

書き溜めしてるんですよ実は

こんばんは!のぶしんです。

お前全然記事出さねーなと思ってますよね。はい、重々承知しております。

 

実はいくつか途中までだったり、出してなかったりもします。

お前嘘つけって思いますよね。私はあまり嘘つかないと人に言います。実際にあまり嘘つきません。本当に途中まで書いたり、出す気分でないなというものがあるのです。

 

今回はそのことについて、適当に書いていきます。良ければお付き合いください。

 

記事を書くときは衝動的に書くことが多いです。

元を辿れば、ブログを始めたのも一種の衝動です。なにかやらねば!との思いから始めるに至ります。

 

脱線させると、何をやるにしてもある種の衝動に駆られると考えております。

 

まあこの話は衝動に駆られたときにします。

 

話を戻すと、衝動に駆られて書きます。

そうすると衝動に駆られてないときは、書けません。

書けないのです。

 

ズラーっと書いても、時間足らずで持ち越すときもあります。

持ち越すときと衝動は消えます。

 

下書きは消えません。

 

お気づきですよね。

そうです。

 

お気づきのところで今日は終わりまします。

それでは。